2024.03.31

その対象を完全と言えそうなほどに理解して、自らの手の中にその性質のすべてを収められる時が来るのを待ち望んでいる。同時に、理解すれば理解するほどに幻惑されて、どこまで追っても解体されることのない、不滅の魔法に取り憑かれてもがいた挙句、蔦のように絡みつくそれに逆に呪い殺されたい、とも思う。理解するということは、生きた存在をこの手でばらばらにしてしまうことで、それはその存在のことを知ろうと思う限り、最終的にはそれを自らの手で味気なくてつまらないものに変えざるを得ないということだと思う。そうした横暴をどこまでも許されたいという幼稚さといくらかの破滅願望を伴いつつ、今よりも少しはおもしろい場所へ、みたいなことをつい思ってしまう。

2024.03.28

やっと本を読んでいるという自意識から完全に逃れた状態で本を読めるようになった。物を知っていたところで馬鹿であることには変わりがない。それを目の前に分かりやすく示してくれただけでも、入試に落ちるという経験を得てよかったと言えるのかもしれない。現実は日に日に遠ざかるばかりで、生きていても仕方がないから生存に対して敬虔に自らを恥じて生きていくしかない。自分の意識がそれをようやく少しは理解するようになったらしい。ほんの少しだけれど、良いことだと思う。駅の階段を上りながら、自分は長く蹲るごとに、魂を清冽に病んでいくのだろう、というようなことをどこかで了解した。

強固な文体が確立されている文章は何でも面白い。

2024.03.22

たんぽるぽる - 雪舟えま

 みにおぼえないほどの希望に燃えて目覚めてもあと二万回の朝?

 こういう歌が結局好きなのだと思う。いつでもすぐに理解できるし、理解できるだろうという確信によってなんとなく安心がもたらされる。誰もに薄く絶望していてほしいのかもしれない。宇宙の果てしない暗がりに覆われていてほしい。ほしい、というか、どうしてそうじゃないのか、と思う(いつも思うけれど、ほしい、という言葉は自分の感情に比してやや強すぎる力を持って波及しているような気がして困る)。幸福であってほしいと思うのと同じくらい。でもみんなが死にたかったら自分も死んでしまうほかないと思う。死ぬことが本当に可能かどうかは別にして。

 どうしても他者が何かを名づける方法やその名前を注視してしまう癖がある。少なくともこの人の題名の付け方はわりと好きかもしれないと思った。炎正妃、魔物のように幸せに、たんぽるぽる。

 久々に歌集を読んだ。久々に触れる短歌の韻律に、以前ほどの親しみは覚えられなかった。またいつかうまく巡りあえるだろうか。巡りあいたいという言葉にできるほどの自信がない。いつもと同じようにわからない。

 

 どうしたら自分自身という偏執狂をものともせず耐えうるような物語が作れるのだろう、と思いながら生きているような気がする。

 作品に触れても結局自分の話しかできない。それがなんだか嫌でどうにかしたいと思う。でも本当のところどうしたらいいのかわからない。ほかのあらゆる物事と同じように。

 だらしなく緩んだイメージがぼやけて重なっているだけのそれはたぶん絵画的で、たぶん絵画ならある程度は許されるもので、恐らく自分は自分の言葉に向いていない。

 美しいものを見ていたい。みたいな言葉にしかならない。まだ生きているということをかろうじて説明できるかもしれない言葉。

2024.03.20

昨日は休学手続きの申し込みのために久々に大学に行った。本来2月末までに申請するものと知ってはいたが、合格発表が3月中旬だったから仕方がない。3月末までに担当の教員に書類に印鑑を押してもらうために面談を取り付ける必要がある。連絡のメールを送らなければならないのが面倒でまだ手をつけられていない。休学理由を詳しく書いたものを書類と一緒に提出しなければならない、それも面倒で放り出している。

数日前、小学校の同窓会に顔を出した。自分の脳になにか新しい刺激を与えられたらいいと思った。会う人会う人に写真を撮られて、それを見せられる度に自分の容姿の醜さに本当に嫌気が差した。友人から送られてきた写真をありがとうと受け取るそばからすべて消去した。仲の良かった人はみんな大学受験に成功しているみたいだった。誰もが喋り続けていた。とはいえ、予想よりもおとなしい同窓会だった。私立だからだろうなとあとで思った。

ギリシャ神話や北欧神話の本が読みたい。

本を読んでも何を書けばいいのかわからないし、なにを思えばいいのかもわからない。単純作業のように文字を追って、文体や内容で頭を満たしているのが心地よい。

 

こちらあみ子 - 今村夏子

異邦人 - アルベール・カミュ